Cody Poulton氏 劇評
鉄仙会『月夜遊女』公演
Cody Poulton, Kyoto Consortium for Japanese Studies
2025年11月23日の青山にある鉄仙会能楽研究所で上演された『月夜遊女』を観て、演出家の笠井賢一とのアフタートークに参加させていただき、作品の背景や演出の意図についてお話ができて何より嬉しかった。
この舞台は、泉鏡花の同名小説をもとにした作品だ。原作は明治39年(1906年)9月に『新小説』で発表されたもの。同年の11月と12月には『春昼』と『春昼後刻』も刊行されていて、鏡花が精力的に幻想文学を書いていた時期である。
この頃、彼は静養のために三年間逗子に滞在していた。あの海と風の町で生まれた幻想が、この物語の底に静かに流れているように思える。逗子や湘南を舞台にした『草迷宮』もその延長線上にあるだろう。
『月夜遊女』では、ある晩 吉と音という二人の男は逗子新宿の浜から横浜へ釣った魚を担いでいく途中、吉は自分が運んでいる大きな鮟鱇の肝が食べたくて口から肝を抜こうとすると、突然、艶やかな怪しい女が現れる。その女はやがて狩に出かけた伊澤侯爵に出会い、お蘭という殿様のお部屋様となる。一年が経ち、吉が侯爵の別荘番・七親父に女の話をすると、二人は様子を見に行くことに。そこで彼らが目にしたのは、お蘭が侯爵の弱った足を按摩するうち、腕から炎が立ち上り、侯爵の身体を包み、家までもが燃え上がるという凄絶な光景。
七と吉は侯爵を救い出すが、お蘭は船で逃げるところへ突然神将が現れ、侯爵に夜叉となったお蘭を打てと命じる。しかし、侯爵は撃つことができず、お蘭を逃してしまう……。
こうして、予想外の展開が連続する奇想天外な物語が幕を閉じる。
この『月夜遊女』を読んで(そして観て)まず感じたのは、『春昼』『春昼後刻』とのつながりである。
『春昼』が白昼夢のような物語だとすれば、『月夜遊女』は月影の中の幻覚。
どちらにも「愛と死」という鏡花文学の永遠の主題が流れている。
富裕な婦人・玉脇みをが他人に恋をする『春昼』に対し、『月夜遊女』では妖艶な女が伊澤侯爵を惑わせる。つまり、後者は前者のパロディ的変奏ともいえるのだ。
しかも登場する吉と音のコンビは、どこか十返舎一九『東海道中膝栗毛』の弥次喜多を思わせる。恋愛譚が滑稽譚へとずれ込んでいく、その軽妙さも鏡花ならではの作品である。
一九の『釣戎水揚帳』では、釣った河豚が女に化けて戎の相手となり、情交の果てに戎が衰弱するという荒唐無稽な話が出てくるが、このあたりのユーモラスなエロティシズムは『月夜遊女』ともよく似ている。
鏡花の女性は、いつも妖しく、美しく、そして怖い。
彼にとって愛と死は裏表で、女は聖と魔の境を自在に行き来する存在であった。
谷崎潤一郎のように女性を偶像化するのではなく、鏡花はもっと霊的で、内面的な純粋さに惹かれていた。しかし、その清らかさの裏には、恐ろしいまでの魔性が潜んでいる。
だからこそ、鏡花の女は“化け物”にも等しい存在である。鏡花は観音と鬼神、聖と魔という女性の両義性を深く認めた。女性が豹変する――それは吉にとって性への恐怖そのものです。
この構図は、11月14日に銕仙会が銀座六で上演した『葵上』にも通じる典型例。『葵上』のように、愛が怨念へと転じる――そんな能の世界観にも通じている。もっとも、鏡花自身、超自然的なものを「信じた」というより、むしろ「見ていた」とさえ言えただろう。『月夜遊女』では、鮟鱇が美女に、そして美女が夜叉に化ける。変身の連鎖は、まさに宇宙的な循環である。
この作品を舞台にするとき、鍵になるのは「能」の世界だと思う。
村松定孝『泉鏡花事典』にはこう書かれている。
「最後に神将が現れ、夜叉を取り逃した怠慢を叱る。能楽の変化物を観るように、幻想と現実を錯綜させた鏡花独特の作風が見どころであろう。」
なるほど、『月夜遊女』は能の変化物に近い構成であるが、能は写実劇ではなく、物怪や変身、顕現を直接見せずとも、言葉の力によって観客の心に像を結ばせる芸術なのだ。また、笠井氏の演出はその能的手法をうまく利用した。
アダム・カバット氏は平凡社版『月夜遊女』の後書きで「この作品には悪人がいない」と書いている。鏡花作品では政治家や富者が悪人として描かれることが多いのに対し、ここで登場する伊澤侯爵は女に騙されるだけの好色老人だが、決して悪ではない。お蘭もまた、トリックスター的な存在にすぎない。
カバット氏の言葉を借りれば、「美女は高貴で妖艶に見えるが、その裏にあるおどけた姿こそ、美女の本質なのかもしれない。」
美と醜悪、エロスとタナトス、幻想と滑稽、風刺と神格化の綯い交ぜでできている『月夜遊女』は、ホラーというよりふざけた法螺話。
泉鏡花は江戸の怪談や黄表紙、滑稽本の伝統を継ぎながら、エログロ・ナンセンスの先駆者でもあった。
(舞台写真 阿部章仁)
【M. Cody Poulton (M. コーディ・ポールトン) 】
1955年カナダ・トロント生まれ。トロント大学博士号を取得し、1988年から2021年までカナダ・ヴィクトリア大学において日本語および日本語文化を教えた。ヴィクトリア大学名誉教授。専門は日本の近代文学と演劇。主な著書は『Spirits of Another Sort: The Plays of Izumi Kyōka (異なった類の精霊たち:泉鏡花の劇)』や『A Beggar’s Art: Scripting Modernity in Japanese Theatre (乞食芸:日本の近代化の劇化)』など、歌舞伎から現代小説や戯曲を数多くの英訳もする。2022年から京都アメリカ大学コンソーシアム所長。
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